国内最大のコーヒー碗皿を生み出してきた滝呂
滝呂の窯業は、一説に瀬戸の赤津城主松原下総守広長の子孫、領右衞門が慶長(1596-1615)初年に窯を開いたことに始まると伝えられている。
中世の山茶碗の窯跡が存在しており、さらに16世紀の大窯である滝呂日影窯では鉄釉や銅緑釉の天目碗や灰釉丸皿、擂鉢などが生産されていた。江戸時代になると連房式登窯によってもっぱら日用品食器の生産が行われ、同地の生産高を記した寛政12年(1800)の「年内焼高覚之帳」にも徳利や茶漬茶碗、片口などを盛んに焼いていたことが記されている。
近世の滝呂において特に注目されるのは寛政5年(1793)、加藤定吉が京都の聖護院の御門主へ水指を献上して、滝呂焼の銘を受けたことであり、今も定吉に与えられた滝呂焼銘の書付が残されている。文化・文政(1804-1830)年間頃には磁器の生産が可能となっていて染付製品やそれに先行する柳茶碗、石器の広東碗などが作られおり、これらの陶片は窯跡からも採取されている。明治初年から20年(1887)当時は小皿の生産が盛んであって、そのほとんどが三五皿や4寸皿であったといわれ、内国観業博覧会の出品目録にも確認ができ、第二回三回と手描きの人物画、盆栽画、桔梗画、青磁蘭画などを絵付けした皿の出品がみられた。そして、明治前期の貿易拡大の傾向からコーヒー碗皿の製作が始まり博覧会にも出品されています。
小皿を特産としてきた滝呂であったが和食器販売の著しい不振に際し、輸出向製品への転換が議論され本格的に生産に乗り出すことになったのがその時からである。本格的なコーヒーカップ&ソーサー製造の始まりである。ちょうど日露戦争前後は輸出陶磁器業界の一大隆世紀であって、陶磁器絵付業の集積地であった名古屋へ滝呂の白素地も多量に供給されていったのである。20世紀初頭のこうした製品の転換はその後の質・量ともコーヒー碗皿の日本一を誇ることとなった滝呂の第一歩となっていきました。明治時代から大正期にかけては、とりわけ製造における技術確信をみた時期となり、明治42年(1909)に多治見に営業用の石炭窯が登場したのをきっかけに滝呂にも多くの石炭窯が薪窯から変わって採用されました。当時のヨーロッパにおける磁器焼成は石炭窯が一般的であり、薪材を燃料とした登り窯に変わる近代的な窯の導入は輸出向洋食器の焼成にも適していた。よって、滝呂における登り窯から石炭窯への転換は美濃地域で最も早く、大正年間にはほとんどが石炭窯に変わったと言われている。こうして窯、ろくろをはじめプロダクトとしてのものづくりを可能とする技術の革新により、第一次世界大戦の好状期にはコーヒー碗皿の生産は飛躍的な発展を遂げ滝呂の製陶業のほとんどはこの期に輸出向けに転換しました。
そんな土地で生まれ育った初代創業者松原朝一は大正5年9月(1916年)に白素磁に一番適した石炭窯を築きマルア製陶所として創業しました。 日本の喫茶店第一号が明治21年(1888年)に東京.上野に誕生したとされ、この頃から一般層にも少しずつ普及し始めたコーヒーを飲む器に朝一は着目し日本国内では早い時期よりコーヒー・ティーカップ&ソーサーを専門に生産を開始します。ここから丸朝製陶所カップ&ソーサーの歴史は始まります。
そして1951年1月4日二代目松原平太郎はマルア製陶所を法人化、有限会社丸朝製陶所としこの頃より本格的に陶磁器を生産してそのほとんどを海外へ輸出し始めました。
その8年後の1959年、滝呂町の地にあった石炭窯を止め現在の多治見市星ケ台に重油によるトンネル窯を築くと同時に設備の近代化をはかり増産体制を取ります。その生産数は1日にカップ&ソーサーで約2万個という今ではない計り知れないような数の陶磁器を生産していました。もちろんすべてOEMによる製品です。
1991年三代目松原朝男が社長となり翌年に全自動ファイバーシャトルキルンを導入し以前の量産体制から少量多品種へと生産をシフトします。
松原圭士郎 (株)丸朝製陶所